認知症の父の在宅介護記録

アルツハイマー型認知症(要介護5)を患う父の在宅介護の記録

終末期医療のあり方とは

f:id:zaitakukaigo:20181021113957j:plain

「欧米に寝たきり老人はいない」これは外国人である私の夫もよく言っている。
 
彼の国には、今の私の父のような最期の迎え方はないということを聞き、
ここでも「日本の常識=世界の非常識」を感じる。
 
この著者のインタビュー記事がこちら。
 
私の中での、何となく感じていた経鼻栄養や痰の吸引への抵抗感は当然のことで、
むしろそうしたことを行わない国が多数派であることを知り、ほっとした。
 
医師や看護師は、痰の吸引は仕事と割り切って、ガンガン行う。
そうした中で、私もしなければいけないと自分を説得してきたものの、
他国ではこうした行為は虐待と捉えられ、行われないというのがスタンダード
であることを認識し、私の感覚は間違っていなかったのだと思えたことが
何より良かった。
 
父が誤嚥性肺炎で入院してから、
・緊急時の蘇生をするか否か
・経管栄養や胃ろうをするか否か
・看取りをどうするか
こうした様々なことについて、都度意思決定を迫られてきた。
 
私は基本的に父のような老衰の末期状態にある高齢者については経管栄養で無理やり命をもたせることには反対である。
 
それは
・父の生と死に対する尊厳
・父のような(もう回復する見込みのない老衰末期の)高齢者に莫大な医療費を費やす
 現在の高齢者医療制度への懐疑
という2つの視点からだ。(この点についてはまた長くなりそうなので、別途書くことにするので、今日は触れない。)
 
だけれども、父の状態は医師の見込み(もって2, 3ヶ月)とは異なり、状態が少し良くなってきたこともあり、結果、全ての選択肢の中でよりベターな選択をすると、胃ろうという選択肢を選ばざるを得なくなり、現在、父は胃ろうを作り、胃に直接栄養を入れる方法をとることとなった。
 
一見矛盾しているように見えるが、常に病状や様態が変化する中、こうした本来であれば不本意な意思決定をすることもあるのだ。おそらく他にもこうしたジレンマを抱えている方はいるのではないかと思う。
 
でも、「仕方がない=万事OK」ではなく、今でも私の中には、「もしどこかで異なる選択をしていれば、今父がこんなに苦しい日々を送ることは無かったのではないか?」と振り返ることは間々ある。
 
2025年には、この国の人口の3人に1人が65才以上、4人に1人が75才以上という超高齢化社会を迎える中、政府も医療・福祉にかかるコスト削減という視点から、終末期医療のあり方を見直し、父のような老衰末期の患者に対して経鼻栄養等は行わないという方向に持っていく流れにある。
 
でも、本来であれば、コストという観点ではなく、
人の生と死に対する尊厳という視点から、人権という視点から
この問題は語られるべきなのではないか。
 
そこが欧米と日本の根本的な違いなのだろう。
 
いずれにせよ、終末期医療についても、「医療機関・施設での看護・介護」→「在宅での看護・介護」へという、小手先の方向転換ではなく、視座高く、視野広く議論を勧めていただきたいと強く思う。