認知症の父の在宅介護記録

アルツハイマー型認知症(要介護5)を患う父の在宅介護の記録

穏やかな日々

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写真は我が家のちびっこナース

最近はルーティーンワークをよく理解していて、

「じいじの注入」というと、計量カップとシリンジを取ってきてくれ、

「じいじのオムツ交換」というと、オムツを大量に(←ここがポイント)くれる。

子どもは本当に大人の言動をよく見ているなあと感心する。

 

さて、10月から続く、父の好調期は継続しており、おだやかな時間を過ごすことができている。春には「余命1ヶ月程」と言われ、夏には「年は越せないでしょう」と言われていた父。いのしし年の父は、来年は年男、84才。この調子だと、来年の誕生日(7月)も迎えられるかもしれないなと感じている。
 
退院してからの父は、下痢の時をのぞいては、自力で排便することは難しい状態だったけれども、最近はそれもできるようになってきた。寝たきりで、食事もできない父は体重は30キロ台。ほぼ骨と皮だけの状態で、筋力も衰え、排便に必要ないきみもできず、通常は週に2回の訪問看護の際に摘便(肛門から指をいれ、便をかきだすこと)してもらっていた。がここのところ、摘便をしなくても、自力で排便ができる時が増えてきたのだ。
 
栄養は決まったものを、常に決まった時間に、決まった量注入しているので、摂取する栄養の質は変化ない。その他に、体調がよくなる要因は特に思いつかないものの、父の体調はこの3ヶ月程、とても安定していて、少しずつ良い方向に向かっているように思える。
 
発話はできないものの、最近は目で訴える感情の幅が広がった気がする。
・私の娘が傍にいる時は、小動物でも見るような優しい目になる
・周りがガチャガチャうるさい時は、ちょっとうっとおしそうな顔をする
・痛いこと、嫌なことをされる時は、「やめろ」と言わんばかりに睨んでくる
・話しかけると、内容によって、ふと驚いたように目を見開くことがある
などなど。
 
父はもう発話することはできないものの、父の表情を見ていると、何となく言いたいことが分かるような気がしてくる。
 
決して劇的に、回復したり、良い方向に向かっているわけではないが、可もなく不可もなく、安定した状態が続いていることに、「この状態が続けばいいのに」と思わざるを得ない。この状況がいつまで続くのか分からないけれども、いつかは必ず来る、別れの時にそなえて、この穏やかな日々を噛みしめたいと思う今日この頃だ。

 

訪問入浴

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寝たきりの介護において、家族ではできないことの一つに入浴がある。
 
施設や病院の場合、ストレッチャーが浴槽と連結した特別な入浴機器があり、寝かせたままでの入浴が可能だけれども、一般家庭の場合そうはいかない。浴槽まで運ぶことはできても、浴槽の中でずっと支えることはできない。なので、寝たきりの在宅介護では訪問入浴サービスを利用することになる。
 
父の場合、週に2回訪問入浴のサービスを利用している。1回の時間は約50分。浴槽を始め入浴に必要な物は全て持参してくださるので、こちらは何も用意する必要はない。入浴サービスは看護師1名+スタッフ2名で対応してくださる。
 
入浴の流れはこんな感じ。
 
・バイタルチェック(体温、血圧、脈拍、呼吸数、酸素濃度等を計測)の上、入浴
 ができる状態かどうかをみる。熱が高い、血圧が高い等、入浴ができない状態の
 時は、全身の清拭などで対応してくださる。
 ↓
・お風呂の準備
 持参した浴槽を組み立て、お風呂の準備。お湯は浴室またはキッチン等からホー
 スでひっぱってくる。
 ↓
・ベッドからお風呂に移動し、入浴
 身体をお湯につけ、身体を洗い、最期はシャワーで流す。入浴自体は2名対応。
 入浴中にもう1名がベッドのシーツ替えなどをする
 ↓
・お風呂からベッドに移動し、再度バイタルチェック。
 乾燥で皮膚がカサカサな場合、ここで全身にワセリンをぬったり、必要に応じて、髭をそったり、爪をきったりもしてくださる。褥瘡がないか等も入念にチェックしてくださる。
 
これだけのことを、50分という短時間で、ちゃっちゃと仕上げてくださる。
 
訪問入浴サービスの事業者も様々だろけれども、うちに来てくださっている事業者は、スタッフの方みなさんとても細やかな心配りのもと、いつも笑顔でとても丁寧に対応してくださる。父に話しかける際は、かならず手をにぎり、目をみて、笑顔で話しかける姿を見る度に、サービスのクオリティの高さを実感する。毎回、スタッフの顔ぶれは変わるものの、父に関する情報はきちんと共有されているし、チームワークが素晴らしい。
 
医療・介護など、「人」と「人」が接触する分野において、こうした信頼おける方々にお世話をしてもらえることは、有難いことだ。
 
パンフレットを見ているだけでは、介護サービスの内容はイメージがわかず、分かりづらいけれども、実際に毎週2回来ていただいて、父の入浴をしてくださる様子を見ていると、こういうサービスは不可欠だと実感する。

訪問リハビリ

9月末に退院してから、父の状態はすこぶる良い。

下痢も完全に止まり、痰も減り1日に1回吸引するかどうかというくらいだ。体温調節の仕方も要領を得てきたので、熱があがることもほとんどない。一時は酸素の値が、しょっちゅう90を下回っていたけれども、最近は96を下回ることはまずない。優秀。優秀。

 

そんなこんなで10月中頃、ケアマネさんから訪問リハビリを勧められる。父の場合、もう寝たきりの状態で、自ら身体を動かすことは不可能だけれども、何もしないでいると、どんどん身体が硬直化していくので、それを防ぐ目的で、手足を動かしたり、身体を起こすリハビリをしてはどうかということだった。

 

身体が硬直化すると、着替えやおむつ交換の際、無理に身体を動かすことになるため、少なからず痛みや不快感を伴う。そういったことを防ぐという点でも、リハビリを行う意味はあるようだ。

 

そこで、10月末より週に1回、40分の訪問リハビリをお願いすることになった。毎日少しずつ身体を動かすことで、身体の硬直を防ぐ、硬直のスピードを緩めることは可能なようだ。語学・筋トレと同じだ。毎日コツコツとが大切。

 

数回目のリハビリで、座る練習をしてみましょうとのことで、リハビリ師さんが、父を起こし、抱きかかえ、ベッドに腰掛ける形で座らせてくださった。

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8ヶ月も寝たきりだった父が座った瞬間!「クララが立った」並みの感動!

 

長期間寝たきりだったので、上半身はフラフラになるのかと思いきや、意外にしっかりとしていて。もちろん背中は支えているものの、今では20分くらいは座ることができるようになった。そして不思議なことに、寝ている時の顔つきと、座った時の顔つきはまるで違うのだ。いつも私たちが上から覗き込んでいる顔を、正面から見るからなのか。角度の問題?それとも、父自身の気持ちの変化が表情に表れているのか?

 

ほぼ寝た状態の父しか知らない、私の娘も、驚きの表情だった。そりゃそうだ。初めて、正面から見つめ合う二人(笑)そして、寝ている時以上に、しっかりと孫の顔を見て、目で追う父。

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 次の目標は椅子に座れるようになること。椅子に座れたら、普通の車いすにも座れるので、部屋から出て、お庭の景色を眺めたり、愛犬の姿を見ることもできるようになる。

 

寝たきり状態でも、こうして新な目標を持ち、日々の生活を送ることは私たち家族も、ポジティブになれるので、とても意義あることだと思う。

 

介護生活は山あり谷あり

度重なる、下痢との闘いも退院して数日で終わりを告げることとなった。
特に何か新に特別なことをしたわけでもないが、下痢は収束していった。
 
私は何においても、原因ー結果の関係を知った上で、対処法を検討したいたちで、
父の病状についても「なぜそうなるのか?」「何が原因でそうなるのか?」を常に医師にも尋ねてきた。今の往診の担当医は、そういった私の質問に対し「何ででしょうね」とよく口にするのが、そんな医師の言葉に不信感すら抱いていた。
 
だけれども、最近そんな医師の、一見無責任そうにも聞こえる「何ででしょうね」こそが解なのだということに気づき始めてきた。
 
もう父のような老衰の末期状態になると、特定の何かが原因で体調が変化するというのではなく、全身状態が悪くなっていることで、色々な要因が絡み合って、色々な体調不良が起こってしまうのだ。
 
なので、例えば今回の下痢についても、Aという原因のみによって下痢になったのではなく、Aが主要因っぽいが、Bという要因も関係ありそうだし、Cという要因も考えられる。なので、これといった治療法があるわけでもないのだ。
A'とB'という薬を試し、それがダメならC'という薬も試してみようか。
といった具合なのだろう。
 
何でも唯一絶対の解があるわけではない。
何でも白黒つけられるものでもない。
 
父の介護を通して、世の中にはこういったよく分からない事や物も存在するのだと思えるようになってきた。
 
 
さて、9月末に父が退院した後3日程で、あの長い下痢との闘いは終わることとなった。
あまりにも、あっさりと下痢がストップし、少し拍子抜けしてしまった。
 
CD腸炎の便にはアルコール耐性菌が含まれるため、便の処理をした後はアルコール消毒では全く効かないと言われていた。なので、便が付着した可能性がある部分等はハイターを水で薄めたものをスプレイしてから洗濯をするようにと指導された。また便のついたオムツは新聞紙でくるんだ後、ビニール袋を2重にしてからゴミ箱に捨てなければならなかった。こうしたことを徹底するため、スプレイボトルやビニール袋を購入したものの、あっけなく下痢は終了。
 
そんなこんなで、10月から今にいたるまで下痢とは無縁の生活。
さらに、今までは常にゴロゴロ言っていた気管も、今では全くの無音。
痰もほとんど出ず、この1ヶ月でおそらく私は5回も痰を吸引していない。
肌つやも良く、表情もしっかりしている。
嫌な時は、手をあげて抵抗するし、背中が痛い時等、腰をうかすこともできる。
 
下痢がおさまり、痰もおさまり、今は絶好調の父!かれこれ、絶好調具合が1ヶ月以上続いている。このまま体力もつき、どんどん元気になったら、また食べることもできるようになるのでは?なんて思ってしまう。そんな時に以前、とある方がコメントで「介護生活は山あり谷あり」と仰っていたことを思いだす。
こんな好調な時が永遠に続いてくれれば。。。などと叶わぬ願いを抱いてしまうが、
現実はそう簡単にはいかない。
 
遅かれ早かれ、必ずやまた不調な時が来るのだ。
もしかすると、今はそんな時に備えて体力を温存しておくべき段階なのかもしれない。
今のうちに、鋭気を養って、きたる闘いに備えようと思う。

寝たきり患者の体温調節の難しさ

父の介護を通して、寝たきり患者の体温調節の難しさを痛感している。

 

父のような寝たきりの場合、ほぼ24時間ベッドの上にいることになる(唯一ベッドから出るのは訪問入浴の時くらい)。自力で動くことができないので、背中はずっとベッドに接している状態。なので背中はどうしても暑くなってしまう。さらに布団をかぶせると、その熱がこもってしまい、体温が上がることがめずらしくない。ちょっと布団をかけているだけで、体温は37度後半くらいまですぐに上がる。

 

今年の夏は猛暑で、我が家のような夏向きの家も24時間エアコンはフル稼働だった。それでも常にマットレスに面している背中は暑くなり、汗でパジャマがじっとり濡れることがあった。

 

また最近は朝夕は寒いのでエアコンを入れたくなるものの、エアコンを入れて、布団をかけると、寝たきりの父にとっては暑すぎる状態になり、すぐに背中がじっとりしてしまい、体温もあがってしまう。

 

寝返りをうてないということが、こんなにも体温調節に影響してしまうとは、驚きだ。と同時にベストな体温を保つことの難しさも痛感している。

 

ここ1, 2週間で朝・夕の冷え込みが増し、我が家のような古い日本家屋は屋内であっても、外と同じくらいの気温になる。ちなみに我が家は築100年以上の町屋だが、家自体の傾きも大きく、建具はすきまだらけで、すきま風がひどい(以下写真参照)。また足元については、床板1枚の上に畳が敷かれているので、畳の隙間からも冷たい外気を感じる。そんな状態なのでどうしても、毛布も布団も掛け、エアコンも入れたくなるのだけれども、それはNGなようだ(看護師談)。

 

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対応策として、教えていただいたのは以下2つ。

・胸の下あたりまで布団をかけ、胸より上はタオルをかける

・靴下をはかせて、足元は布団をかけない

 

要は全身を布団でがっつり覆うのはNG。

上半身または下半身の一部を出して、空気にふれさせることが必要とのこと。

 

あとは父の場合、自動で体位変換ができるマットレスを使っているのだが、そのマットレスには、

・寒い時にはマットレスを温める機能

・暑い時には足元から空気を送り出す機能

がある。

 

こういう機能を活用するのも一つだ。

 

これから、過酷な冬がやってくる。

この家での冬は、アウトドア生活に匹敵する寒さとの闘いとなる。

うまく、寒さ対策、体温調節対策をして、冬を乗り切りたいものだ。

下痢とのたたかい(その3)

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下痢が再発し7月末に入院することになった父。
 
結局、入院後の検査でCD腸炎であることが分かったため、高カロリーの点滴を投与し、下痢の治療にあたることになった。
 
当初はお盆あたりに胃ろうの検査&レスパイトをかねて入院する予定だったのだが、下痢の治療目的で、入院を早める形になったのだ。胃ろうの検査では、問題なく胃ろうを作れることが分かり、結局入院中に胃ろうを作る手術も。
 
胃ろうを作った後は、まずは白湯から始め、その後少しずつ胃に直接栄養を注入していくことになった。また栄養剤はこれまで使っていたエンシュアからラコールに変更となった。エンシュアは少ない量で高カロリーなため胃腸への負担が大きく、下痢を引き起こす一因になっているのでは?という見立てからだ。便の検査の結果CD腸炎であることが既に分かっているので、下痢の原因は抗生剤だと思うのだけれども、それ以外の原因も考えられるようだ。
 
だけれども、その後も下痢は続き、結局入院期間の大半が下痢続きだった。。。
そしてさらに痰も大量に出るため、頻繁な吸引もあり、父も終始とても苦しそうだった。
常に眉間にしわを寄せている父の姿に、もう命も長くないのではないか?と思い始めてきた。
 
このままではせっかく看取り目的で、在宅での介護を選択したのに、病院で息をひきとってしまうことになるかもしれない。「最期は自宅でゆっくり」という当初の希望を叶えるためにも、そろそろ退院させてほしいと思い始めてきたのが9月の中旬。先生にも私たちの意向を伝えると、あっさり退院を了解していただけた。あまりのあっさり具合に拍子抜けしてしまったくらいだ。と同時に、「退院できる状態なら、もっと早く言ってよ」という思いもなくはなく。。。
 
結局下痢がおさまらないまま、9月末に退院することになった。
しかし、寝たきり老人の下痢は、本当につらい(本人が)。
 
父の場合、便が出ても、そのことを伝える術が無い。
私たちが確認できるのは、①匂いがある時、②パット交換でオムツを開ける時だけだ。
逆に言うと、これらが無ければ、私たちは気づくことができない。
 
そのためできるだけ頻繁にオムツをチェックするようにしているが、それでも2時間程経ってから気づくということもままある。あと、夜は私たちも寝るため、夜中に排便した場合などは、朝までそのままということもある。これは本人にとっても、不快極まりない上、便が皮膚に接している時間が長くなるため皮膚へのダメージも大きい。。。
 
長く続いた下痢のせいか、入院前はきれいだったお尻が、退院後にはお尻の周りの皮膚がカッチカチになっていた。触れる度に痛みがはしるようで、オムツ交換の度に、眉間にしわを寄せ、身体をよじったりする。。。本当に見ていて痛々しい。。。
 
そんなこんなで、退院するや否や、また自宅での下痢とのたたかいが始まることとなった。

終末期医療のあり方とは

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「欧米に寝たきり老人はいない」これは外国人である私の夫もよく言っている。
 
彼の国には、今の私の父のような最期の迎え方はないということを聞き、
ここでも「日本の常識=世界の非常識」を感じる。
 
この著者のインタビュー記事がこちら。
 
私の中での、何となく感じていた経鼻栄養や痰の吸引への抵抗感は当然のことで、
むしろそうしたことを行わない国が多数派であることを知り、ほっとした。
 
医師や看護師は、痰の吸引は仕事と割り切って、ガンガン行う。
そうした中で、私もしなければいけないと自分を説得してきたものの、
他国ではこうした行為は虐待と捉えられ、行われないというのがスタンダード
であることを認識し、私の感覚は間違っていなかったのだと思えたことが
何より良かった。
 
父が誤嚥性肺炎で入院してから、
・緊急時の蘇生をするか否か
・経管栄養や胃ろうをするか否か
・看取りをどうするか
こうした様々なことについて、都度意思決定を迫られてきた。
 
私は基本的に父のような老衰の末期状態にある高齢者については経管栄養で無理やり命をもたせることには反対である。
 
それは
・父の生と死に対する尊厳
・父のような(もう回復する見込みのない老衰末期の)高齢者に莫大な医療費を費やす
 現在の高齢者医療制度への懐疑
という2つの視点からだ。(この点についてはまた長くなりそうなので、別途書くことにするので、今日は触れない。)
 
だけれども、父の状態は医師の見込み(もって2, 3ヶ月)とは異なり、状態が少し良くなってきたこともあり、結果、全ての選択肢の中でよりベターな選択をすると、胃ろうという選択肢を選ばざるを得なくなり、現在、父は胃ろうを作り、胃に直接栄養を入れる方法をとることとなった。
 
一見矛盾しているように見えるが、常に病状や様態が変化する中、こうした本来であれば不本意な意思決定をすることもあるのだ。おそらく他にもこうしたジレンマを抱えている方はいるのではないかと思う。
 
でも、「仕方がない=万事OK」ではなく、今でも私の中には、「もしどこかで異なる選択をしていれば、今父がこんなに苦しい日々を送ることは無かったのではないか?」と振り返ることは間々ある。
 
2025年には、この国の人口の3人に1人が65才以上、4人に1人が75才以上という超高齢化社会を迎える中、政府も医療・福祉にかかるコスト削減という視点から、終末期医療のあり方を見直し、父のような老衰末期の患者に対して経鼻栄養等は行わないという方向に持っていく流れにある。
 
でも、本来であれば、コストという観点ではなく、
人の生と死に対する尊厳という視点から、人権という視点から
この問題は語られるべきなのではないか。
 
そこが欧米と日本の根本的な違いなのだろう。
 
いずれにせよ、終末期医療についても、「医療機関・施設での看護・介護」→「在宅での看護・介護」へという、小手先の方向転換ではなく、視座高く、視野広く議論を勧めていただきたいと強く思う。

介護な日々(ほっこりする時)

父がレスパイトと胃ろうの検査入院(のみの予定だったが、胃ろうが作れる状態であることが判明したため、胃ろうの手術もしていただいた)を終え、退院したのは9月末。

 

父の帰宅後、また介護生活が始まる。そんな日常において、1才5ヶ月になる私の娘が、ほっこりさせてくれることが間々あり、笑顔が絶えない我が家だ。

介護に必要な色々な物も、娘にとっては全てが魅力的なおもちゃ。そんな介護グッズで遊ぶ娘の姿はほほえましいものだ。

 

この夏は初めてビニールプールを出し、庭で水遊びをした。我が家にある大量のシリンジを一つ拝借する。シリンジは水が出る勢いが激しいので、水鉄砲にはうってつけだ。あとはシリンジの押すところを引っ張り抜くと、ポンッと良い音がなるのだが、その音がお気に入りのようで、何度も何度も入れては外しを繰り返す娘。

 

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入院する前に経鼻栄養で注入していたのはエンシュアという、缶に入った栄養。でも、胃ろうを作った後、下痢が続き、栄養を見直し、別のものに変更したため、自宅に大量にあまるエンシュア。これが今では娘の積み木と化している。。。

 

箱から出しては積み上げをひたすら繰り返す娘。

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ちなみにこのエンシュア。飲むこともできるようだけれども、ものすごく甘ったるいようで、まだ挑戦できていない。24缶×3ケース+αのエンシュアをどのように消費するか、目下の課題。保険適用で購入したものなので、転売はできないし。。。ググると、エンシュアの活用法が色々出てくる。エンシュアアイス、エンシュアゼリー、エンシュアパンケーキ、エンシュアフレンチトースト。クックパッドにもエンシュアを使ったレシピが載っていて、ビックリしてしまう。それだけ、余って使い道に困っている人がいるんだな。。。

 

もし欲しい方いらっしゃいましたら、差し上げますので、DMください(笑)

 

一番のお気に入りはおじいちゃんの介護ベッドのリモコン。テレビでも、照明でも、リモコン全般大好きなのだが、特にこのベッドのリモコンは押すとおじいちゃんが上がったり、下がったりするのが面白いようで(笑)時々おじいちゃんが90度近くまで起きていることもあったり、ちょっと危ない。。。なので、最近はリモコンをロックしている。けど、ロックの解除の仕方にも気づいたようで、最近はロックを解除しようと日々リモコンと格闘している娘。

 

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とまあ、1才と83才の同居生活は、微笑ましく、ほっこりする日々です。

 

下痢とのたたかい(その2)

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退院後、最初の下痢が8日間続いた後、しばらく父の状態は落ち着いていた。経鼻栄養も再開し、普段どおりの時間が戻ってきた。と安心したのもつかの間、7月下旬にまた下痢が再発した。。。
 
薬の処方をお願いした際に、前の下痢の時、2回目に出してもらった薬がすぐに効果が出たこともあり、同じ薬を出して欲しいとお願いするも、何と処方された漢方薬。。。これまで処方された薬は整腸剤→腸炎の薬→漢方薬。なんでだろうか?とりあえず色々試そうということなのか?そして、案の定、漢方薬は効かず、下痢の状況は変わらず。。。
 
ちょうど週末を挟んでいたため、週明けの月曜日に往診に来てもらうことになった。担当医からは、自宅でまたOS1のみを注入し、下痢については点滴で対応することも可能だが、病院であれば高カロリーの栄養の点滴も可能であるし、治療のオプションも広がるためと、入院を勧められる。
 
今年の夏は今までに経験したことのないような暑さで、私たちのような若い世代でもこたえる暑さだった。我が家は築100年以上の町屋のため、建具の間がすきまだらけで、エアコンを入れても外気が入ってきてしまい、エアコンがききにくい。エアコンの室外機を冷やすことで冷えをよくするハックなどをSNS上で見つけ、試してみたりもしたが、さほどの効果はなかった。。。そんな住環境なので、父にとっては下痢もあるわ、暑さもひどいわで、かなりしんどかったのではないかと思う。本当に。。。
 
ちょうどお盆休みにレスパイト(介護にあたる家族の小休止のための入院)&胃ろうの検査をかねて1週間程入院する予定だったのだが、その予定を少し早めて、入院することにした。病院は自宅とは異なり温度調節も万全なこと、治療のオプションも広がると思ったためだ。
 
そんなこんなで6月から始まった介護生活が2ヶ月程経ったところで、また入院生活に戻ることとなる。
 
下痢。。。なかなか手ごわい。。。

下痢とのたたかい(その1)

 

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退院後の父は自宅に帰ってきた安心感からか、体調はすこぶるよく、これまでの眉間にしわを寄せっぱなしで終始苦しそうだった父とは別人のように、表情も穏やかになってきた。「もって2, 3か月、夏は越せないでしょう」と言われていたのが嘘のようで、「来年も再来年も誕生日を迎えられるかもね」なんて家族と話していたくらいだ。
 
ところが、7月上旬頃から急に下痢になり、そこからみるみるうちにまた衰弱していった。下痢になって、薬を処方してもらったものの、処方された整腸剤は全く効かず。。。往診の先生に、「細菌性の下痢の可能性もあるし、便の検査をしてもらえないか」とお願いしたものの、「自宅で便をとって病院に持ち帰ることはできない」と言われる。いやあ。できるんじゃないのかなと思いつつも、強くはつっこまず。。。
 
そこから数日様子を見たものの、下痢はいっこうに治る気配はなく、また往診に来てもらう。いつもの担当医とは異なる先生が来られ、抗生剤が原因で発症するCD(クロストリジウム・ディフィシル)腸炎の可能性があるということで、別の薬を処方していただく。また腸への負担軽減のため、経鼻栄養はストップし、OS1のみを注入することになる。当然のことながら、栄養が全くとれないので、父はますます痩せ細っていく。。。がこの薬が効いたようで、服用した翌日には下痢は落ち着いてきた。
 
父は4月から肺炎と膿胸治療のため2ヶ月間、抗生剤を投与し続けていた。その時の抗生剤の影響で、腸が炎症を起こしている可能性があるのではないかとのことだった。でも結局、便の検査はしてもらえなかったので、抗生剤の影響なのか否か、はっきりとは分からずじまいだった。
 
ここまでに要した時間8日間。。。健康な私たちでも数日お腹をくだすだけでも、しんどいのに、体力も無い父にとっては相当苦しかったはず。。。たかが下痢ではないのだ。
 
また下痢そのものの苦しみに加え、皮膚のただれという副産物もうまれる。父は動けないし、言葉を発することもできないので、便が出ても自分でどうすることもできない上、「出た」ということを私たちに伝えることはできない。なので、すぐにオムツを交換できない時もある。(だいたいは匂いで察知できるけれども。。。)そうなると、お尻の皮膚がかぶれたり、ただれたりしてしまう。最初は少し赤くなる程度だったものの、すぐにただれてしまうのだ。そうすると、皮膚にふれるだけでも痛いようで、ちょっとお尻を触るだけでも、眉間にぐっとしわをよせ、痛がる。なので、下痢の時は、基本的におしりふきで拭くことはしない。ぬるま湯で洗い流してあげるのだ。そして最後は軟膏をたっぷりぬってあげる。
 
そんなこんなで、寝たきり老人で、下痢が続くことは、私たちが想像する以上の痛みと苦しみ、不快感があるのだと痛感する。とにかく、一日も早く下痢はとまるよう祈るしかない日々だった。
 

介護保険のあれこれ

介護保険介護にかかる費用の一部が保険によって賄われるものだけれども、これまたすごく幅広くカバーされている。
 
介護保険で受けられる介護サービスといっても、本当にたくさんある。なので、ここではサービスを受ける場所ごとにまとめてみた。
 
1.自宅でのサービス
足腰が悪い方等、家事を自分でこなすことが困難な方は家事支援(買物、料理、掃除、洗濯などなど)を受けることができるし、父のような寝たきりの場合は、オムツ交換、入浴等もお願いすることができる。訪問看護(これは医療保険ではなく介護保険では看護師による体調管理と必要に応じて処置を受けることができる。
 
2.通所サービス
デイサービスといってもイメージがわきにくいかもしれない。私はいつも保育園の高齢者版のような感じと説明している。朝お迎えの車が来て、1日デイサービスで過ごし、夕方には車で自宅まで送ってもらう。食事も提供され、リハビリやレクリエーションなんかもある。
 
3.施設でのサービス
いわゆる施設には(1)介護に携わる家族の負担軽減等を目的とした期限付のショートステイ、(2)特養や老健など、完全入居型の施設とがある。いずれも、食事、排せつ、入浴、リハビリやレクリエーションなどのサービスが受けられる。
 
4.介護用品のレンタル
歩行器具、ポータブルトイレ、介護ベッドなどなど介護に必要な物がレンタルできる。介護用品のカタログを見ていると、いかに大きな市場であるかを実感させられる。
 
その他にも自宅のバリアフリー化やてすりの設置、トイレや浴室の改修などの工事費に対して上限20万円が支給されるなど公的な支援は様々ある。
 
と、まあ、介護保険で利用できるサービスは本当に多岐にわたる。これらは無制限に利用できるわけではなく、要支援・介護度に応じて、利用上限がある。
 
例えば、要介護5の場合、介護保険の利用限度額は1ヶ月あたり360,650円。その上限内であれば、支払額は1割~3割負担(所得に応じて負担割合は異なる)となる。
 

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これ、ものすごい手厚いサービスだと思う。要支援・要介護の人数と平均的な利用額から、公的資金の投入額を計算したくなる。。。

父の場合、初期の頃はデイサービスにも通っていたし(本人が嫌がったすぐに通わなくなったけれども。。。)、ショートステイも何度か利用し、特養に入所した。最終的には帰宅し、今は訪問ヘルパー、訪問看護、入浴サービス、福祉用具のレンタルを使用している。

こうした公的支援を受けることができるのは、大変有難いこと。だけれども、介護と育児に携わっていると、高齢者支援と子育て支援の量・質のギャップに愕然としてしまう。。。
 
 
子育て世代の大半は経済的余裕は無いがビーベッドも、ベビーカーも、おまるも全て自費で購入する。一方で高齢者の中でも貯蓄が十分ある富裕層の方々も介護保険1割~3割負担)で、福祉用具をレンタルすることができる。
 
基本的に病気ではなく、また当事者期間も短い赤ちゃんと老いゆく高齢者を比較するのはナンセンスかもしれないが、世代間の支援内容の格差が大きすぎるのではないかと思う。公的な支援の在り方としては、世代にかかわらず、低所得者への経済的サポートをより充実させ、高所得者にはさらなる負担をお願いすべきだとづくつく思う。
 
介護当事者として介護保険制度の恩恵を受けつつも、子育て当事者としては世代間の不公平さを感じる、そんな日常です。
 

胃ろうという選択

父が退院して間もなく2ヶ月、経鼻栄養をはじめて4ヶ月程が経とうとしていたこの夏。胃ろうという選択肢について考える段階がきた。
 
胃ろうとは、食事をとることがができない場合、誤嚥する危険性のある場合など、何等かの理由で口から栄養摂取ができない方に、おなかに穴を開け、そこから直接胃に栄養を投与すること。
 
もともと私は高齢者の胃ろうに対してはネガティブなイメージしかなかった。もちろん、経口での栄養摂取が不可能な方でも若い方であれば、胃ろうを作り胃に直接栄養を注入する意味はあると思う。栄養摂取が問題なだけで、それさえできれば、元気に活動できる方の場合、胃ろうは一つの有効な選択肢になるからだ。
 
だが父のように80過ぎて、認知症を患い、肺炎を繰り返し、どう手をほどこしても元気な状態に戻ることの無い高齢者の場合、延命だけのために無理やり栄養を注入するようなやり方が果たして終末期のあるべき姿なのか?という疑問があり、強い抵抗感を感じていたからだ。実際、欧米ではこうした高齢者への延命措置は非倫理的であるとされており、こうした延命措置をとらないのが一般的なようだが、その感覚はもっともだと思う。
 
だけれども、こうした思いに反し、その時々の父の病状の変化により、本来希望していなかったオプションを選択せざるをえない状況を迎える。
 
もともと父が入院した時は、もって1ヶ月の命を言われており、経鼻栄養や胃ろう等は希望しないと医師にも伝えてきた。だが肺炎の治療が思いの他長引き、治療を継続するためには、点滴だけでの栄養摂取には限界があった。治療にたえうる体力を維持するためには、経鼻栄養という選択をせざるを無くなった。
 
また肺炎の治療をしたところで、もって2, 3ヶ月、夏は越せないだろうと言われていた父も、自宅に帰ってきてから調子が良くなり、酷暑の夏も何とか乗り越えることができた。経鼻栄養の管を入れた4月からもう4ヶ月が経とうとしていた。鼻から胃までチューブが通っている状況は、不快感極まりないし、チューブの交換も苦痛が伴う。
 
そんな状況ゆえ、医師からも胃ろうという選択肢を提示されることとなった。
 
経鼻栄養と胃瘻ろう。この2種類のメリット・デメリットについて調べたし、医師や看護師、ヘルパーさんにも、意見を聞いた。以前入院していた病院の主治医にもセカンドオピニオンをうかがった。それを踏まえ、父の場合、胃ろうにするデメリット以上に、胃ろうにするメリットの方が大きいため、胃ろうを作る決断をした。
 
父に関して、経鼻栄養を続けること&胃ろうにすることのメリット・デメリットはこちら。

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入院当初は、鼻から栄養を入れるなんて、胃ろうを作って直接胃に栄養を入れるなんて、自然に反することだし、そこまでして「生かされる」ことを父が喜ぶはずないという思いから、断固反対だった。でも状況が変われば、気持ちも変化するし、最終的な決断にも影響を与える。
 
経鼻栄養を始めた頃は、経鼻栄養をこんなに長くするとはだれも思っていなかった。だけれども、父は今生きている。そして生きている限り、栄養を与えず餓死させるわけにはいかない(そもそも口から栄養がとれない=老衰の末期状態に対し、栄養を与えることが是か非か、この点は議論の余地があるが)。であるなら、より負担の少ない形で栄養を与えるべきであり、今目の前にある経鼻栄養と胃ろうという2つの選択肢を比較すると、胃ろうがベターであるということになった。
 
私たちが下した「胃ろうをする」という選択が良かったのかどうかは分からない。さらにいうと、良い・悪いという評価をすること自体がナンセンスなのかもしれない。ただ言えることは、今正しいと思っている選択も、来週にはそうではなくなることもあるということ。患者の病状や家族の状況は日々変化する。その中で、その時々で、よりベターだと思われる選択をするしかないのだ。だから、絶対的な選択肢というのは存在しないのだと思う。そこが介護の難しさでもあり、無力さを感じてしまう一因なのかもしれない。
 
でも選択しないという選択肢はない。常に、私たちは父の命に関する選択をし続けなければならないのだ。
 

朝日新聞:終末期患者が蘇生拒否、半数超の消防本部で対応に苦慮

www.asahi.com

 

この記事の内容、他人事ではない。

 

我が家でも、この件については何度か話をしてきたものの、いざ何か起こった時には、気が動転して救急車を呼びかねないなと思う。

 

父が退院してから呼吸困難になったことが2回あった。

1回目は昼食におかゆを食べさせ誤嚥した時。

2回目は早朝、痰の吸引をしている時。

 

1回目は食べ物の誤嚥をはじめて目の当たりにし、一体なにが起こったのか分からず、母、姉、私でパニックになった。私が吸引し、姉が訪問看護師に電話をかけ指示を仰いだ。そしてすぐに看護師が自宅にかけつけてくれ、体位ドレナージを行ってもらい、症状は安定した。

 

2回目は早朝、私1人で痰の吸引をしていた時。前回誤嚥した時と同じような気管から鳴り響く音を聞き、何が起こっているのかが分かった。うろたえつつも、訪問看護師に電話をかけた。「このままだと死んでしまう」と思った私の手は震えていて、うまくダイアルできなかった。電話で指示された通りに体位を変換し、何とか落ち着いた。それでも、酸素の値がドンドン下がり、60を切ったときは、「もうダメだ」と思い、泣きそうになった。

 

私たちは家族で、父の状態が急変した際にどのように対応すべきか話し合いをしてきた。私たちの間では、たとえ父の病状が急変したとしても蘇生はしない、という方向でコンセンサスが得られている。その時は一時的に苦しいかもしれない。でも蘇生をして苦しさを長引かせたくないという思いからだ。

 

それでも、いざ、気管からものすごい音がなり響き、今にも息が止まりそうになっている父の姿を目にすると、とっさに「このまま死なせてはいけない」「なんとかしなければ」と思うものだ。訪問看護師に電話をし、病院に搬送するように言われたら、私たちも救急車を呼んでしまうのではないだろうか。

 

医師や看護師は状況を冷静に客観視し、あきらめることもできるだろうし、またあきらめなければならない時もあるだろう。でも家族は医療のプロではない。目の前にいる人間に対して愛情とともに、「少しでも長く一緒にいたい」という思いを持って接している。そう簡単に割り切れない。

 

これこそが、在宅療養や在宅介護の難しい点だと思う。今、在宅療養や在宅介護を増やしていこうという流れになりつつある中、こうした看護や介護にあたる家族への指導や働きかけがより一層必要になっていくのではないかと思う。

 

 

 

 

介護な日々(1日の流れ)

在宅で介護を始める前は、いったいどんな日々になるのか、想像もつかなかった上、様々な方から「頑張りすぎないように」と助言を頂いていたが、いざスタートしてみると、さほど負担とは感じない。基本的にはルーティーンが大半なので、自然と生活の一部になっていく。
 
一つ言えるのは、時間の流れがものすごく早く感じるようになったこと。一つ一つの作業時間は短いものの、1日通してみてみると、ちょこちょこと何かをしている感じで気忙しい。なので、まとまった時間を取ることが難しく、ゆっくり読書なんていうのも、なかなかできない。←これが今一番したいこと!
 
参考までに、我が家の1日の流れをざっと時系列に書いてみた。

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●痰の吸引
ここには痰の吸引は書いていない。痰の吸引回数は体調によってまちまちだからだ。痰がたくさん出る時は1時間おきくらいに吸引するし、ほとんど出ない時は1日に数回も吸引しないこともある。痰の吸引以外は、ほぼこの流れ通りに進めていく。
 
●オムツ交換
オムツ交換は普段は3~4時間に1回、下痢をしている時などは頻繁にチェックし、適宜交換。
 
●経鼻栄養の注入
注入は朝、昼、夕の1日3回。ほぼ7:00, 12:00, 18:00の時間に注入を行う。
 
私たちはやることが色々あるものの、父は特にすることが無いのだが(本を読んだり、テレビを観たりということもない)、刺激を与えるためにYoutubeで夏メロを聞かせたり、昔のスポーツの映像を見せたり、Netflixで吉永さゆり(父の大好きな女優)が出ている映画を観せたり、孫を派遣してみたりしている。
 
毎朝、ヘルパーさんがオムツ交換をしに来てくださるが、午後の予定は変則的。夕方にヘルパーさんが入ることもあれば、訪問看護や訪問入浴が入ることもある。
 
ちなみに1週間の予定はこんな感じ。月曜~日曜まで少なくとも毎日2回、人の出入りがある。なので、来訪者のスケジュールにあわせて、こちらも動かなければならない。不便さを感じるのは、この点だけだろうか。

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あと、色々な人が父をみるため、体温、便、尿、酸素の値、その他特筆すべき点等の記録をノートにつけるようにしている。こんな感じ。これを見ると、父の体調の変化がつかめるし、後から振り返って見ることもできるので便利だ。
 

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改めてこうして見てみると、本当に色々な方の支えによって、今の生活が成り立っていることを改めて認識する。それぞれのサービスの詳細については、また別の機会に改めて。

育児と介護

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20代~30代あたりで育児にたずさわり、子どもが自立し一段落という40代~50代あたりで親の介護を迎え、60代~70代くらいで配偶者の介護が始まるというのが世間一般のスケジュール感だろうか。こうしてみると、人生において自分以外の人間のお世話をする時間が占める割合が大きいものだと実感する。

 
私は年の離れた姉妹の末っ子。父が45才の時に生まれたため、年齢の割に早く親の介護に携わることとなった。また1才になる娘がいるため、育児&介護が同時にやってきたことになる。
 
今の状況を知る人は、「育児に介護に大変ね」という言葉をかけてくださるが、当の本人はあまり大変だとは感じていない。育児と介護両方あって、ちょうど良いバランスを保てている面が多々あるからだ。
 
育児と介護。やることはほぼ同じだ。食事と排泄、そこに医療行為が加わる程度か。でも、一方は日々どんどん成長していく。昨日できなかったことが今日はできるようになり、ものすごいスピードで新たなことを知り、吸収していく。そしてもう一方は少しずつ衰弱し、自分でできることはほとんどない。父が今自力でできることは、息をする、見る、聞く、感じるなどくらいではないだろうか。この世に誕生してまだ間もない娘と、間近に死がせまった父。「生」と「死」が私の目の前を交互に行きかう感じだ。
 
育児において、自身とは異なる「個」を相手に格闘する日々。1才4ヶ月の娘は自我が芽生えはじめ、自己主張をするようになってきた。発する言葉はまだわずかだが、彼女の中に確固たる主張はある(しかも私に似て、ものすごく頑固だ。。。)。やりたいことができない時、欲しいものが得られない時、彼女は怒りをあらわにする。もちろん言葉では表現できないので、物をたたいたり、投げたりして、感情を表現する。そういった状況が日々繰り返される中、彼女の行動の裏にある意図をくみ取り、傾聴し、受け入れることが大切だと頭では分かっていても、ついつい苛々したり、腹が立つこともある。
 
でも父の介護を通し、父の無力な姿を見るにつけ、娘の命の尊さに気付かされる。苛々などのネガティブな感情がわいてきた時は、病気や怪我もなく、元気いっぱいに毎日を全力で生きている娘の存在は奇跡の連続であること(彼女は早産のため2ヶ月早く生まれ、出生時は1,000g程の未熟児だったのだ。)を忘れてはいけない、日々生かされていることに感謝しなければならないと自分に言い聞かせている。生きているということ、健康に毎日を過ごすということ、これらは当たり前のことではないのだと。こうした捉え方をすることができるのも、常に父の介護を通して死を意識しているからだと思う。
 
一方で介護については、子どものように変化したり成長したりと、良い方向に向かっていくことはあまりない。むしろ年齢とともに、状況は悪化し、介護に携わる者の負担は増える一方。そこにやりがいや楽しさを見出すのは容易ではない。今やっていることの延長に輝かしい未来を描くことは難しく、モチベーションを維持するのが大変だ。我が家の場合、主な介護の担い手は、母、姉、私の3人。配偶者のみが介護に携わるケース等を比べると、一人一人の負荷は断然軽い。それでも、落ち込んだり、やるせない気持ちになることは間々ある。
 
そんな状況において、娘の存在はとても大きい。彼女は家族に笑顔をもたらしてくれる。無邪気で可愛いさかりの娘の存在に皆が癒され、また救われている。ある日、娘が父の栄養剤の缶をもち、全力で缶を振り始めたのには驚きとともに大爆笑だった。私たちが注入をする前に、缶をしゃかしゃか振っているのを娘はいつも見ていて、それを真似していたのだ。またとある日は体温計を持ってきて私の洋服の中に突っ込んできた。脇に入れるとまではいかない所がおしい!これも普段私たちが父の体温を計っているところを見ているがゆえの行動。色々なことを見聞きし、真似するのだから、本当に悪いことはできない(笑)
 
こうしたことは日常のほんの些細なことだが、我が家にただようはりつめた空気感が一瞬にして変わる。彼女のおかげで、日々の介護もそこまで苦ではなくなるのだ。子どものもつパワーって凄いなと感じる。話はそれるが、介護と育児の融合、例えば高齢者と子育て家庭のシェアハウスとか、なんかお互いの不足する部分を補いあう形でのコミュニティ作りとかできないかなあと漠然と考えてみたりする今日この頃。
 
そんなこんなで、1才の孫と、83才のおじいちゃんが一つ屋根の下で一緒に暮らす、そんな介護生活を送っております。