認知症の父の在宅介護記録

アルツハイマー型認知症(要介護5)を患う父の在宅介護の記録

育児と介護

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20代~30代あたりで育児にたずさわり、子どもが自立し一段落という40代~50代あたりで親の介護を迎え、60代~70代くらいで配偶者の介護が始まるというのが世間一般のスケジュール感だろうか。こうしてみると、人生において自分以外の人間のお世話をする時間が占める割合が大きいものだと実感する。

 
私は年の離れた姉妹の末っ子。父が45才の時に生まれたため、年齢の割に早く親の介護に携わることとなった。また1才になる娘がいるため、育児&介護が同時にやってきたことになる。
 
今の状況を知る人は、「育児に介護に大変ね」という言葉をかけてくださるが、当の本人はあまり大変だとは感じていない。育児と介護両方あって、ちょうど良いバランスを保てている面が多々あるからだ。
 
育児と介護。やることはほぼ同じだ。食事と排泄、そこに医療行為が加わる程度か。でも、一方は日々どんどん成長していく。昨日できなかったことが今日はできるようになり、ものすごいスピードで新たなことを知り、吸収していく。そしてもう一方は少しずつ衰弱し、自分でできることはほとんどない。父が今自力でできることは、息をする、見る、聞く、感じるなどくらいではないだろうか。この世に誕生してまだ間もない娘と、間近に死がせまった父。「生」と「死」が私の目の前を交互に行きかう感じだ。
 
育児において、自身とは異なる「個」を相手に格闘する日々。1才4ヶ月の娘は自我が芽生えはじめ、自己主張をするようになってきた。発する言葉はまだわずかだが、彼女の中に確固たる主張はある(しかも私に似て、ものすごく頑固だ。。。)。やりたいことができない時、欲しいものが得られない時、彼女は怒りをあらわにする。もちろん言葉では表現できないので、物をたたいたり、投げたりして、感情を表現する。そういった状況が日々繰り返される中、彼女の行動の裏にある意図をくみ取り、傾聴し、受け入れることが大切だと頭では分かっていても、ついつい苛々したり、腹が立つこともある。
 
でも父の介護を通し、父の無力な姿を見るにつけ、娘の命の尊さに気付かされる。苛々などのネガティブな感情がわいてきた時は、病気や怪我もなく、元気いっぱいに毎日を全力で生きている娘の存在は奇跡の連続であること(彼女は早産のため2ヶ月早く生まれ、出生時は1,000g程の未熟児だったのだ。)を忘れてはいけない、日々生かされていることに感謝しなければならないと自分に言い聞かせている。生きているということ、健康に毎日を過ごすということ、これらは当たり前のことではないのだと。こうした捉え方をすることができるのも、常に父の介護を通して死を意識しているからだと思う。
 
一方で介護については、子どものように変化したり成長したりと、良い方向に向かっていくことはあまりない。むしろ年齢とともに、状況は悪化し、介護に携わる者の負担は増える一方。そこにやりがいや楽しさを見出すのは容易ではない。今やっていることの延長に輝かしい未来を描くことは難しく、モチベーションを維持するのが大変だ。我が家の場合、主な介護の担い手は、母、姉、私の3人。配偶者のみが介護に携わるケース等を比べると、一人一人の負荷は断然軽い。それでも、落ち込んだり、やるせない気持ちになることは間々ある。
 
そんな状況において、娘の存在はとても大きい。彼女は家族に笑顔をもたらしてくれる。無邪気で可愛いさかりの娘の存在に皆が癒され、また救われている。ある日、娘が父の栄養剤の缶をもち、全力で缶を振り始めたのには驚きとともに大爆笑だった。私たちが注入をする前に、缶をしゃかしゃか振っているのを娘はいつも見ていて、それを真似していたのだ。またとある日は体温計を持ってきて私の洋服の中に突っ込んできた。脇に入れるとまではいかない所がおしい!これも普段私たちが父の体温を計っているところを見ているがゆえの行動。色々なことを見聞きし、真似するのだから、本当に悪いことはできない(笑)
 
こうしたことは日常のほんの些細なことだが、我が家にただようはりつめた空気感が一瞬にして変わる。彼女のおかげで、日々の介護もそこまで苦ではなくなるのだ。子どものもつパワーって凄いなと感じる。話はそれるが、介護と育児の融合、例えば高齢者と子育て家庭のシェアハウスとか、なんかお互いの不足する部分を補いあう形でのコミュニティ作りとかできないかなあと漠然と考えてみたりする今日この頃。
 
そんなこんなで、1才の孫と、83才のおじいちゃんが一つ屋根の下で一緒に暮らす、そんな介護生活を送っております。